カテゴリー: 学校教育

知識偏重型教育→発想力の欠如?

知識偏重型教育→発想力の欠如?考えてあげよう子どもの未来。子どもと相談しては親の親身な姿に映らない。

かつての高度経済成長期において、国民全体の学力を底上げし、水準を保つことが課題であったころ、知識偏重型教育は絶大でかつ有効な教育方法でした。

 進学校、学区制など、競争心をあおる甘美な言葉や風潮は日本を急カーブを上り上げる工業国と成長させるのに大きな役割を遂げました。

 しかし、21世紀にはいる、デジタル革命がおこり、近年AIが台頭する中、知識を詰め込むだけでは適応しきれない多くの事柄にぶつかることになってきました。

知識ばかりでは、過去に資産をこねくり回しても、アイデアがまとまらず、前に進めない、「過去の知識を正確に再生する」価値観では、世界標準に大きな後れを取るっことになる。

 いまだ、教育は、戦後の学校教育の法規にのっとり、改革、改革とお題目は良いにしろ、本当の意味の改革はなされず、修正にとどまっています。

 あれほど、小学生から国際的に・・・と英語の習得をと叫ばれ、「英語に慣れ親しむ」と教科に置き、中学、高校、大学と力を入れていると宣言していますが、会話や日常的に、また、国際的に活躍できるほど英語に慣れていない。

そう、見破る親は、日本の学校ではなく、インターナナショナルスクールや通信制の特色ある学校に通わせたりしています。

 そういった、成果は徐々に芽吹き始めているさまを目にするようになりました。

 学校だけに頼るのでなく、風評で選別するのでなく、

親御さんたちは、お子さまにどんな、大人になってほしいのでしょう。

 子どもと相談してとか・・・体のいいお言葉を述べられる方がおりますが、

大人より、視野の狭い子どもたちに、未来を考える力がそれほどあるようには

思えない。増してや好き嫌いで、予想される激動の社会を乗り越える力はつかない。どんな大人になってほしいか。大人が考えその考えを伝え、お子さまと激論をしあってください。それでこそ、親。と私は考えます。いかがでしょう

不安な時代だが、今こそ自分を磨く時期

アメリカの大統領の発言に、世界は揺れています。

お子さまの生活も無関係とはいかなくなってきているようだ。

海外大学への留学や修学旅行でハワイや西海岸へ行く学校があるとすれば、

大きな、軌道修正を行い始めている学校もちらほら見えてきた。

だが、考えてみよう、日本は、何か生み出すことよりも、集団で誰も

おいていかない教育に重点が置かれてきた。

おかげで、識字力は平均的に高い能力。

しかし、何もないところから、何かしらを生み出す力は?

正解のない事柄に、どのようにアプローチしていくのか

すべを教えてくださる教育は行われてこなかったといっても過言では

ない。

出る釘は、撃たれ。他と異なることは悪の状態であったのではないか

ブランドに酔いしれ。

質を見極められない。これで海外にものを売り込んだり、

全く新しいものを生み出し、プレゼンし売り込むことができるのだろうか

教育は根幹である。今こそ、考えなければ、日本は終わる。

単に、暗記力が高い人が、頭がいいだけでは、知らないことが

押し寄せたときに、何もできないのではないだろうか。

教育から、自立学習へ

教え諭されて、人の成長が培われてきたとすれば。

成熟社会となってきた現代では、多くの学びがある。

それは、子どもに限ったことでなく、学び続けようとする姿が

形づけられれば、多くの物事に関心を示す姿となる。

 そこに、数々の疑問を抱く姿が見られるようになり、

自ら探求しよとする姿が見られるようになる。

 だが、そこにたどり着くまで、多くの誘惑が待ち伏せ

なかなか、まい進できないのが人である。

 特に日本の教育は、「一年生になったら、友達百人できるかな?

と、帰属意識を強調し、飼いならされて来た。ここに、良さがあり、悪さがある。

 平等性の中の没個性が、何かを生み出すのには、大きな困難を伴う。

 しかし、今こそ、何が足りていて、何が不足しているのか?

自立的に考えるときである。

 国の予算に対し歳入が不足していれば、安易に、国民に納税を強いる体質は

江戸時代の悪代官のやり口ではないか?

 産業を興し、外貨をしこたま取り込み、国を豊かにしていくのが

政治。それを支えるのが国民の学ぶ力、探求の心ではないか?

日本の政治家は、戦国・江戸時代の多く失政は、庶民から追加的に納税させ、一部のブルジョアが優雅に暮らしたあの時代であったような気がする。

繰り返すのはそろそろ、やめよう。

教育の‟教”の漢字の中に鞭が入っている

ように、そのルーツを探るのでなく、子ども達の自立的で、

多様な興味を認め、応援していこうではありませんか?