教え諭されて、人の成長が培われてきたとすれば。

成熟社会となってきた現代では、多くの学びがある。

それは、子どもに限ったことでなく、学び続けようとする姿が

形づけられれば、多くの物事に関心を示す姿となる。

 そこに、数々の疑問を抱く姿が見られるようになり、

自ら探求しよとする姿が見られるようになる。

 だが、そこにたどり着くまで、多くの誘惑が待ち伏せ

なかなか、まい進できないのが人である。

 特に日本の教育は、「一年生になったら、友達百人できるかな?

と、帰属意識を強調し、飼いならされて来た。ここに、良さがあり、悪さがある。

 平等性の中の没個性が、何かを生み出すのには、大きな困難を伴う。

 しかし、今こそ、何が足りていて、何が不足しているのか?

自立的に考えるときである。

 国の予算に対し歳入が不足していれば、安易に、国民に納税を強いる体質は

江戸時代の悪代官のやり口ではないか?

 産業を興し、外貨をしこたま取り込み、国を豊かにしていくのが

政治。それを支えるのが国民の学ぶ力、探求の心ではないか?

日本の政治家は、戦国・江戸時代の多く失政は、庶民から追加的に納税させ、一部のブルジョアが優雅に暮らしたあの時代であったような気がする。

繰り返すのはそろそろ、やめよう。

教育の‟教”の漢字の中に鞭が入っている

ように、そのルーツを探るのでなく、子ども達の自立的で、

多様な興味を認め、応援していこうではありませんか?